大きな絵の中に、バスタブや飛行場や水滴らしきものが、光や影を纏いながら淡い色調で描かれている。それらはフワフワとしていて、日本画にも、抽象画のようにも見える。
描きたいもの
何も事件は起こっていない時間、名前のついていない時間を構成する、豊かな感覚の世界を描きたいんじゃないかなと思います。
例えば、カフェには色んな人がいますが、その中で人間を描くとしたら、私は一人でコップに光が当たっているのをボーッと眺めている人を描くんじゃないかな。カフェでそれまで楽しく話していた人が一人になって無表情になる瞬間は、空白と言えば空白だけれど、実は色々なことが起こっている。それまで意識が、相手の人間に向かっていたのが、自分の心や身体の状態に向かったり、あるいは、テーブルの角に当たる光に向かったり、窓に流れる水滴の筋に向かったりしているんです。それは、生活をあらすじ的に説明しようとおもうと真っ先に省かれる部分だと思いますが、日常は、案外そんな感覚の世界の連続で構成されていて、私はそこに表現されるべきものが沢山埋まっていると感じます。そんなとても個人的な瞬間を、絵の中に生け捕りにしたいと思っているのです。
題材としても、すでに定義されていないものが、多様な表現によって活きることが面白い。例えば、シャワーを浴びていて、シャワー室に水の柱がたくさん落ちている状態がありますが、それを描くと、だんだん変わってきて作品「シャワールーム」になりました。対外的に事件が起こっているわけではありませんし、日常の普通の瞬間ですが、私にとっては作品に表したような世界に感じられました。事件を作品にしたいとは思わないですね。
四つの要素
私の作品はレシピ的に言うと、身体感覚と生理的嗜好、光への関心と映像的感覚という四つの要素で構成されています。身体で感じたことを、生理的な嗜好をそのままに、光を通じて、そして映像的な感覚で絵に表現したいと考えています。これは言い換えますと、ベースとなっている身体感覚や整理的嗜好という内側の要素と、私達の生活に深く浸透している電気的な映像や視覚効果など外側の映像感覚を光と影で表現しようとしているということになります。
油彩を
大学時代は、初めはインスタレーションを制作していましたが、「もっと光と色彩を自分の思うとおりに作っていこう」と考えた時に、絵のほうが便利だと気がつきました。
丁度その頃、誘われて水泳や山登りをはじめました。泳いでいる時の息遣い、山登りの時の疲労感など自分の身体を強く意識するようになり、五感と共に身体の変化などと対話する機会が増えて、バスタブの絵につながっていったんですよ。
ベースは油彩ですが、油絵っぽくないといわれることが多いんですが、油絵の具は幅が広い素材なので、それだけに技術や材質だけが見えてしまわないように、イメージを中心に見て欲しいという気持ちがあります。水彩の作品も筆のタッチを生かして即興的な描き方で楽しんでいますし、水彩を描くことで、自分の意志だけではなく材料が教えてくれることを発見しました。それからは油彩の材質への関わりにも自由さが少し出てきたように思います。
それぞれの絵には
絵の中に籠められていることは、共通しているものもありますが、それぞれ異なっている部分もあります。
表紙の作品「エア・ポート」は窓から見える離陸直後の空港を描いたものです。飛行機の離陸直後の瞬間に、フワッと身体が持ち上がる時の不安定な誰もが味わう感覚を、光と色彩、そして窓ガラスなどで表わしたいと考えていました。
バスタブをはじめ浴室を舞台とした作品を数多く制作しているのは、浴室が自分の身体で直接受取った情報に耳をすませ易い場所と感じているからです。
お湯の温度が上がり、お風呂場が温まる。
皮膚を水滴が叩き、湯気が立つ。
循環が良くなり、心臓の音が聞こえる。
だんだん温まってくる自分の変化。
プラスチックのツルツル。水の感じ。
のぼせてきたりすると画像が歪み、光が乱反射する。
そして、風呂上がりの生まれ変わったような
シーンとしたような 感覚。
そうした感覚を得る時、私の中で五感や身体との対話が行われていると感じています。描く対象がなんであっても、自分の身体がキャッチした情報に意識を集中して、そこから出発したいと思っています。
浴室の中でも特にバスタブをよく描くのは、やはり、その質感に生理的に惹かれるとしか言いようがないでしょう。バスタブのような質感のものは「どういうわけか好きなもの」です。琺瑯のような、プラスチックのような半透明のつるつるした質感になぜか惹かれます。いつも心の中のどこかには、ある独特な光り方をした空間にバスタブが浮かんでいます。光と重なった時、バスタブはバスタブを超えた何かになる。私は、モヤモヤと光るそれを、描くことで視ようとしています。
水滴の作品はとても触覚的なところがある作品です。だれでも一度は曇りガラスを指で拭ったことがあるのではないでしょうか? ガラスに水滴が落ちていくところって、そういう感覚を思い出しませんか? そんな感覚を自分の中に寝かせておく。水滴の筋の内外の関係とか、街の明かりのにじみなど見逃しがちなことがだんだん頭の中に溜まっていく。その発見や驚きを選択しながら制作していきますね。
最近の作品は、視点が近くと遠くを自由に行き来できるようになった感じがします。バスタブ等の浴室のシリーズは、自分の近くの世界。空港の作品は、遠景ですから遠い世界。そして、水滴の作品は、近くと遠くが一枚の絵にコンバインされている世界です。例えば西村画廊での個展に出品する「Airport .Eastgate」は、夜の空港の待ち合い室から見た空港の風景です。窓には水滴がたくさん流れて、これはすごく近くにあります。しかし、窓ガラスの向こうにある空港はとても遠くにあります。そして、水滴の一粒一粒に遠くの景色が映っていて、遠くの風景が、すぐ近くに引き寄せられてもいるのです。自分の近くを沢山みてきたから、遠くを見ることができるようになったのかなという気がしています。そして、遠くを見てわかったのが、私は何を描くにしても、自分の中にいったんイメージを取り込んでから描くから、近くを見ても遠くを見ても、出来上がった物は、同じように近いものであり、身体感覚が深く関わっているということです。
小さい頃から
絵に関心を持ったのは、小さい頃からで、二〜三才頃にはチラシの裏等にいろいろ描いていました。それが、現在まで続いています。中学校時代の担任が美術の先生で、先生が美術の時間の中だけに美術を押し込めずに、生活の中で視覚的関心を育て、物を作る機会を与えてくれたことが私にとって貴重な体験でした。「今、ここに不足しているものは何か? 必要なものは何か? それを創る。」ということを学んだように思います。生活に着目することで、創る必要のあるものが見えてくる、日常生活の中から美術が生まれるということを発見しました。
ずーっと絵を描いていて、描くことにより、そこから派生するものや発見があって、絵を描くことが考えることの基準となっていました。それをドンドン進めているうちに、身体感覚とか生理的嗜好などが絵には出るんだなということが次第に分かってきました。絵を描くことは客観的に自分の状態を確認している面がありますね。こういう時は上手くいかない、こういう気分の時はこうなると自然に分かり、絵を描くことが自分の状態を知るバロメーターの役割も果たしています。
思いもよらない所へ
絵は、思いもよらない所へ私を連れて行ってくれます。その意味は二つあって、一つは、こんな絵を描くんだろうなと思って描いているうちに、変わってくることがあること。もう一つは、色と形が新しいフィールド=自分の可能性を教えてくれること。
最初の一つはこういう絵にしようとイメージを追って描いていますと、途中で混乱というか、シッチャカメッチャカになってしまうんです。その時にいろいろワーッとしているうちに、初めの意図とは違ったものが入ってくる。そうしているうちに出口が見え始め、出来上がったものは、自分の予想の範囲・方向を超えてはいますが、描き始めた時のイメージと意外に一致していることがあります。私の場合、そうしたプロセスを経ることが必要だと思っています。いつも何かが起こる。イメージを頭の中でシャッフルしているからかもしれませんね。これは認識=直感の正体を探るということでしょうか。
もう一つは、色と形が新しいフィールド=自分の可能性を教えてくれることがあるということです。今度の個展で出す予定の作品「スライダー(水の中に視点が入っている)」の光の帯を展開していくうちに、突然、水の中にカエルとかアヒルとか金魚のおもちゃが遊んでいる新しい絵「プリズム」がうかんできました。スライダーシリーズの題の由来は、視線が滑るという意味。バスタブや水槽の内側の壁などに映る光の模様を視線が追っていくところって、視線で光を触りながら滑って行くような感じです。これは、そういう感覚を表すと同時に、この絵自体が、視線を走らせるための高速道路みたいな存在だと思います。視線がドライブするための装置ですね。ところで、ドライブした時って、目的地でいったん降りたいですよね?別世界みたいな、広々した、そこにとどまって遊べるようなところで。「プリズム」は、「スライダー」シリーズを展開するうちに、そんな欲求が私のなかで生まれて描きました。ここでは、「スライダー」シリーズでは三角形や四角形だった、物の陰の部分が、ばらばらに分解されて、カエルやアヒルのプラスチックのおもちゃのシルエットに形を変えました。プリズムが光を分解して形を変えるように、光も陰もイメージも、私を通して形を変え、展開します。絵を描くことを通して得られる予想外の発見、収穫にはいつも驚かされます。
伝えたいこと
バスタブを描いても、それがバスタブだと伝わらなくてもいいと思っています。伝えたいのは、私がバスタブから感じたこと。私の作品制作作業は光と影のやりとりですが、バスタブという設定を置くことで、こういう形ならここに影ができて、光はこうとか、対象の力を借りた判断が可能になるからです。バスタブはすごく単純なものでしょ。だからイメージを逆に膨らませて描くことができる。バスタブの力を借りていても、描きたくない要素はないので、自分の中では自由な気分が保たれています。絵を見に来られた方はバスタブのようなものを見た気になったり、風景画を見たような気になったりして帰られるかもしれませんね。対象が持つ属性からは完全に自由になった世界が展開されているのではないかと思います。
もうちょっと
これまでの作品には、「バスタブ」、「水滴」、「サークルズ」「エア・ポート」、「スライダー」、そして、新しい絵の「プリズム」などのシリーズがあります。シリーズそれぞれに表現したいイメージがあって、そこまで行こう、そこに近づこうとしています。だから、絵を描くときはいつも、もうちょっと、もうちょっとと思っています。身体感覚に目を向けながら、プロセスを楽しみながら、また次の絵でも、もうちょっと、もうちょっとと。
身体感覚、生理的嗜好、光への関心など様々なパーソナルなものと現代の映像感覚を絵に塗り籠める。そして、いろいろな情報が盛り込まれた大きな絵は鑑賞者の”場“を包み込み、柔らかな色彩と光と共に、音や匂いが溢れ出す。
聞き手/柳 十四朗 |